陶磁器製ランプシェード・「ニューレトロ」の優しい光|東京・清澄白河|「飛松灯器」飛松弘隆さん

-藤井

生まれはどちらですか?

 

-飛松

生まれは九州の佐賀県です。京都ではありません。佐賀県の東側なので、佐賀といえば有田焼とか伊万里、唐津が有名で、佐賀県って言うと大体そういう産地のって言われるんですけど、あれは西側の方の文化で、東側はそういう感じではないです。 

でも身近にある焼き物といえば、有田が代表的な磁器の焼き物っていうのが自分の中の身近な焼き物です。陶器でもちろん唐津焼もあるんだけど、陶器より磁器が何か特別なときに出すお皿ってイメージかな。でも、うちの家は別に普通で車の修理工場だったので、車の機械と油の臭いの中で育ったという感じです。

 

-藤井

そんな中で、こうやって美術とか工芸だったりクラフトだったりっていうところは、なんで志すようになったというか、少年時代から振り返りたいんですけど、どんな少年だったんですか?

 

-飛松

うちは3兄弟で3人とも小さい頃から絵画教室、親の意向でやってみろみたいな、それで小学校1年生のときから絵を描く教室に通っていたんです。すごい僕も好きで、他の兄弟は別に習い事で終わったんですけど、僕の場合はそのまま絵の道に行きたいなと思って、小中ずっと9年間通って、高校も芸術系の高校に行こうと。その絵画教室の先輩にあたる人が、そのまま芸術系の高校へ行って、そのまま東京の多摩美に行くっていうところまで、そういうのも知っていたので、僕も中学校2年ぐらいの時点で東京に行こうと決めていて、14ぐらいです。

だからもう他にもバレーボールとかいろいろやっていたけど、本線は絵だなみたいな。高校受験も芸術系の高校を受けて、それで受かりそこから油絵を描き始め、高校3年間ずっと多摩美、ムサビ、芸大に受かるための絵を描くみたいな感じで、そこまで受験勉強というよりは、どっちかといううと、風景画が好きだったので、ずっと風景を描くような感じですけど、ずっとやっていました。

 

-藤井

習い事で始めた絵がかなりハマったということなんですね。やっぱり好きだったし、うまかったんですか?

 

-飛松

やっぱりやってれば上達する部分もあるので、何もやってない人よりはもちろん描ける人間にはなるし、没頭できる時間がすごい好きで、絵の中に。

それが唯一の誰にも邪魔されないような感じで、自分1人でできるっていう感じです。浪人したんですけど、もう東京に18歳で出てきて、1浪して多摩美に受かりっていう感じです。油絵でずっといろんな大学を受けたんですけど、多摩美だけ唯一工芸科を受けていて、なぜかというと滑り止めでもあるんですけど、多摩美の陶芸家の陶というコースがあって、そこは元々油絵の中に入っていたコースで、それが独立して工芸科になったという、もう2、3年ぐらいしか経ってなかったんですけど、だから器を作りますっていう科ではなくて、ファインアート系の中から独立してるので、結構ファイン系の考え方で、陶を使って彫刻的な作品を作るっていう科でした。

だから僕も絵を描いていたけど、大学に受かったら立体作品を作りたいなと思っていたから、もう受験の時点で、絵は受験まで大学では立体作品と、だからもうこれは陶芸家の陶を受ければ、いきなり立体作品で、土はちょっとわかんないけどやってみようみたいな感じで受けたら受かって、そこから陶芸の世界に入っているんです。

 

-藤井

高校までは陶芸とか全く基礎もない?

 

-飛松

 

高校の先輩とか後輩に焼き物関係の人がいて、後輩には津焼の窯元の作家の息子がいたり、あとは先輩には境田柿右衛門の一族の境田先輩がいたりとか、すごく身近なところに焼き物っていうものがやっぱりあった。でも、そのくらいで僕はそこまで意識はしてないです。基本は油絵っていう感じでした。

 

-藤井

油絵はきっぱり捨てれたんですか?それまでずっとやってきたわけじゃないですか。いきなり陶芸って熱くなれたんですか?

 

-飛松

皮肉な話というか、芸術系の高校なので、その年代ですごく絵が上手い人間がいっぱい集まっているじゃないですか。でも僕は、実は中学校2年か3年の時点で、実は絵が向いてないと思っていた。その時点で僕はもう小学校1年生からずっと8年〜9年書いていて、そしたら同じ中学校の中ですごく才能を持ってる奴がいたんですよ。これは努力とか積み重ねだけでは超えられないものがあるんだなみたいな。

その彼は別にそういう勉強してきてないけどセンスがあって、要するにコンペみたいなので負けちゃったんです。それで悔しかったんだけど現実をそこで既に受け入れていて、かといってやめるわけではなかったんです。やっぱり絵は好きだったので、そのまま受験をして、芸術系の高校行きましたけど、絵はでもどこかで多分、限界が来るだろうなとは思っていた。

高校の中でも逆推薦で入ってきている子がいて、逆指名ですよね。そういう子とか本当に上手で、上手なんだけど続かなかったりとかもするんですけど、そのときの自分にはそれしかなかったので、行けるとこまで行ってみようみたいな感じです。

だからちょうど良かったんです。陶芸科があるっていうのは、自分の中で何かこれで何かが見いだせるのかもと思って、期待はしていました。

 

-藤井

地元を離れるわけじゃないですか、1浪で離れるわけじゃないですか。そのときの気持ちってどんな気持ちですか?よし、佐賀から東京行くぞって感じなのか、これから頑張らなきゃなのか、入学のときの気持ちっていうのはどんな感じだったんですか?

 

-飛松

変な感じですよ。要するに現役の受験が、2月に多摩美、ムサビとかがあって、芸大が3月なんです。芸大の試験受験をするためにギリギリまで予備校でやるんですよ。それに参加しちゃうと、高校の卒業式に出られないんですけど、途中で帰る奴もいるんだけど、僕とかもう1人いた友達とか残ったんです。

でも受かるわけはないなとは思いながらも、でもまた来年、1浪して芸大の受験するし、雰囲気を知っておかなきゃいけないし、しっかり全力で最後はそれで締めようっていうので、もう卒業式みたいな感じでやっていて、やっぱりそれで受からず、佐賀に帰ってきたときに高校の先生に挨拶しに行くんだけど、卒業式終わって同級生も誰もいないんです。

もう学校は誰もいない状態で卒業、ありがとうございましたみたいな。荷物持って引き揚げるみたいな。だから高校の終わり方をあんまり覚えてないぐらいの感じ。そのまま家に戻ったら一人暮らしの準備をしつつ、予備校に入る準備もしつつっていう感じです。実際に東京へ飛ぶ前におじいちゃん、おばあちゃんにも挨拶をしたりという感じです。

 

-飛松

高校卒業したらすぐ東京に出て、一浪して多摩美術大学に入ったって絵で行きたかったんですけど、たまたま、多摩美の工芸科がそういうファイン系のところから派生したところだったので、器を作るというよりは、彫刻的な作品を陶で作るっていうところだったんで、そういうのに興味があったので、そこに受かり、そこから陶芸の道に入っています。

 

-藤井

大学入学後は素直に陶芸の方に没頭?

 

-飛松

そうです。4年間はずっと焼き物で彫刻的な作品、立体的な作品を作るっていうことに集中してずっとやってました。就職っていうのも、そんなに考えてなくて、卒業したらすぐそのまま作家になるっていうつもりで、たまたま大学の4年の時に特別講師で来た方が同じ福岡出身の作家さんだったんです。

その方から何か手伝ってくれないかっていう話があって「手伝います」と言ってたら、そのまま卒業した後その人のもとで、アシスタントをしながら自分も作家の道を歩もうみたいな感じで作家スタートしたのが2004年とか2005年です。

 

-藤井

その方がいわゆる師匠にあたるんですか?

 

-飛松

師弟関係というほど、しっかりしたものではないですけど、もちろんそうですね。

 

-藤井

その方の名前とかは言わない方がいいですか?

 

-飛松

樋口武彦さんっていう作家さんです

 

-藤井

大学卒業して、師匠じゃないですけど先輩のところで働いて、その時は何か将来こうだろうみたいなビジョンっていうのは、あったんですか?明確に

 

-飛松

流れとしては、そのまま現代陶芸の作家になろうと思って、その作家さんの下で勉強しようと思ってたんですけど、いろいろ現実を見たときに、ちょっと自分が進む道じゃないのかなって思い始めて、陶芸を素材として使い始めたのが大学がそこだったからっていうのが理由なんだけど、卒業して自分自身の問題として置き換えたときに「陶」って自分の中で一番身近な「陶」って何だろうみたいな。それで考えたときに何か彫刻的な作品が最初には出てこなかったんです。焼き物といえば器だなみたいな。

そこから始めて器を作ってみようみたいな、焼き物で、でも何か彫刻的なものしか作らなかった人間が、ここで初めてようやく器を作るのも面白いなと思ったんですよ。そこは2、3年ぐらいです。

 

-藤井

2、3年で独立っていう形になるんですか?

 

-飛松

独立になるのかな。いろんな他の作家さんのアシスタントもやったり、陶芸教室で働いたりしながら、当時一緒の時期に大学院を卒業した先輩が一緒に住んでいて、工房みたいな感じだったんです。

そういう人たちと一緒に、もう1人いるんですけど、研究しながらというか焼き物を勉強しながら、陶芸教室で働いてそれで生活しつつ、研究時間だから発表はしないみたいな感じことを10年ぐらいずっとやっていたんです。

10年は相当長いです。でも鋳込みは、すごく難しくて、技術的な部分での壁がすごくいっぱいあるので、結構時間かかりました。先生がいるわけでもないです、その時点では。なので、2人で切磋琢磨しながら、作っては批評会して、ここが駄目だねと言って、また壊してまた元に戻るみたいな、そういうことを繰り返して、彼とは8年ぐらい一緒にいたんですけど、ずっとそれでやっていました。

 

-藤井

最初は立体的なものというところから、器に行って、磁器に来ていて、どういう流れだったんですか?

 

-飛松

10年間の期間がある中で、欠かさず行っていたところがあって、それが骨董市だったんです。骨董市で昔から残っているものを見るのが好きで、ゴミではない、誰かによって価値づけされていて、大事にされて、残ってきたものが、なんで残ってるんだろうなみたいなのを考えるのが好きだったんです。

やっぱり今から残していくものを作る身としては残ってきた理由っていうものを勉強するのが、すごい早いなと思っていて、それで骨董市によく行っていたんです。その中で見つけたものが、昔のミルクガラスのランプシェードだったんですけど、ある時そういうシェードだけが転がっていて下に、なんだかわかんなくて、手で持ち上げた、この量感は何だろうみたいな。器具とかもない状態だったから、最初わかんなかったんだけど、店主が昔の照明器具だよみたいな、ミルクガラスって言ってねみたいな「そうですか」と言って、でも確かに映画とかでよくぶら下がってるやつ、こういうのだったかも知れないみたいな。

すごい興味がわいて、それだけ買って、早速家に持ち帰ったんです。なんとか適当な光源を入れてぶら下げてみたら、いつもの自分の部屋が全然違う空間に変わった経験をして、そこからこういう照明は面白いなと思って、骨董市で集めるようになるというか

 

-藤井

作品作りの時間ってあるじゃないですか。飛松さんがランプシェードに出会ったのはいつぐらいなんですか?

 

-飛松

ランプシェードを集め始めたのは、卒業して2、3年経ってからじゃないですか。10年のうちの多分3年目ぐらいから集め始めたんです。でも集めても全然そんなに種類ないんですよ。ああいうミルクガラスのシェードっていうのは大正から昭和初期ぐらいまではいっぱい作られたみたいなんですけど、大小の違いだったり、いろいろあるんだけど特にアールデコ調のものが結構好きだったので、結構アールヌーヴォー系とアールデコ調で結構わかれるんですけど、でも途中で全然ないんですよね。

ないんだって、その時はそのぐらいで思ってたんですけど、後から調べていくと、ない理由がわかってきて、調べると蛍光灯が発明されて、広く一般化された時期ぐらいからなくなってるみたいで、それが昭和の戦後ちょっとしてからぐらいに蛍光灯が東芝から出て、普及していくんですけど、そしたらもうオフィスで使われたんです。ミルクガラスのランプシェードっていっぱい

そういうのがもう全部蛍光灯に変わっていった。要するに需要がなくなってくるともう供給できなくなる、そこからもうあんまり作られなくなってきたんだなっていうのが分かってくるんです。残念だなぐらいな、そのときはそれくらいで終わってたんです。

ただ、あるきっかけがあって、一緒に研究していた友人が粘土屋さんから、より光を通す磁土が出たよっていう、磁土というのは元々光を通すんですけど、よりガラスに近づけたようなやつがあるんですよ。それを仕入れてきて、お茶を作ってたんですよ。面白いねと言って、それでご飯食べて、食べ終わった後に光にかざすと茶碗が透けるわけです。すごい綺麗なんだけど、これ何の意味があるの?茶碗が透けるって。

そのときに「あれっ?」と思って、これはランプシェード用なのかなみたいなと思ったときに、さっきの潰えてしまったランプシェードの文化、あれって素材は違うけど、文化的には自分が継承して発展させるというのをやっていいんじゃないかなみたいな。

だって、見つけようとしても見つからないんであれば、こういうのあったらいいなって自分を作ればいいじゃんと思って、そこから一気にランプシェード作りに入ってくるという感じです。

 

-藤井

それがきっかけだったんですね。だから、何か作りたいものを探していて、ランプシェード見つけて、これだって思ったんじゃなくて、もう趣味だったみたいな。いいなと思っていて、光を通す磁土を見つけて繋がって来たんですね。

それが大体何年ぐらいですか?

 

-飛松

それが4年後とかです。1年間ぐらいずっと探しまくって、毎月あるので骨董市は

 

-藤井

大学卒業して4年?

 

-飛松

大学卒業して4年か3年ぐらい経ってるんじゃないかな。

 

-藤井

そのぐらいから作り始めている?

 

-飛松

そういう研究を始めるということです。

 

-藤井

今まで作っていたのは器?

 

-飛松

器だけです。コップだけ作っていました。

 

-藤井

器は全部捨てちゃったんですか?

 

-飛松

捨ててないですよ。コップは今でも残ってるシリーズあるけど、その時期のコップを1個まず作るっていう自分の理想のコップを作るっていうので、まずそれがずっと毎日の研究だったんです。それのために作っては壊しというのを繰り返して、でもそれをやっているうちに、いつの間にか技術が身についてくるんです。だんだん身についてきたなっていうぐらいのときにランプシェード作ろうっていう出来事があって、同時進行でランプシェードを作ってみるっていうのをやり始める。

でもランプシェードを作り始めたんだけど全然うまくいかないんですよ。要するに粘土屋さんで出しているものをそのまま使っても、すごく扱いが難しい粘土だったので、亀裂が入っちゃったりとか、素材に合わせると簡単な形しか作れないというやつだったんです。

僕が作りづらい形では、これは向かないなと思って、やっぱり素材の方をもう1回調合し直そうと。だから、粘土屋さんから仕入れた状態に、さらに違う磁土をいろいろ混ぜていって、そっちのまずテストピースをいっぱい作るところから、もう1回仕切り直しみたいな、もう100パターンぐらい一応考えて作って、ずっとテストしては焼いてみてみたいなことをやって、ようやくこれだっていう素材が絞れたんです。

 

-藤井

そのときって収入はどうしてたんですか?まだ売り物にならないわけですよね。その時はお手伝いとかですか?

 

-飛松

陶芸教室のアルバイトと作家の手伝いです。もう本当10万とか、いいときで月14万とかもらっていたかな。それで2人暮らしで、でも材料を買ってたりとかいろいろしていたら、すぐなくなって超極貧です。もう月の最後には所持金が5000円とかなるのはざらで、今の奥さんがその時は付き合っていたから、いっぱいサポートしてもらいましたけど、夜ご飯を作りだめしてくれたりとか

 

-藤井

今の話は飛松さんにとって修行期間じゃないですか。そのときの目標であったりとか、ここまでいったら俺は多分納得いく作品なんだみたいな、これから行くぞみたいな、そういうのを決めてたりするんですか?

目標だったりとか、こうなりたいというのはあったんですか?

 

-飛松

その頃の目標はラウンドアバウトの小林さんがすごく尊敬していたので、アウトバウンドももちろん作っていましたけど、そこにやっぱり魅せられるような作品、ランプシェードというのを意識はしていました。吉祥寺に移動したのもそういうところが大きかったので。

途中から吉祥寺に移動してるんですけど、僕の照明の一番最初のデザインのやつは今もうラウンドアバウトは違うところに移動していますけど、旧ラウンドアバウトの店内のここに、こういうのがぶら下がっていたら絶対かっこいいのにみたいなイメージを持って結構作ったところがあって、最初はそういう感じでした。でも、だんだんそれは、もっといろんなところで使えるというふうに広げてはいくんですけど、でもその10年間の中ではまだ自分の中で、このランプシェードがどこまで持っていけるかというのは全然わかってはいなかったんです。

 

-藤井

そういう意味で言うと、そこには実際に置けたんですか?

 

-飛松

そこには全然置けてなくて、その頃は最初の個展がようやくできるようになったのは茅場町にあった頃の森岡書店さんにお声がけいただいて、そこが初個展なんですよ、2014年なんですけど。大学卒業したのが2004年なので、だからそこは10年間っていうことです。

 

表に出すぞと思ったら、そういう個展が決まってすぐ発表できたのが14年かかっているんです。

 

-藤井

10年間、いろいろ試行錯誤しながら作ったランプシェードを外に出すぞっていうときは、どういうきっかけで森岡さんのところで扱ってもらうという流れになったんですか?見つけたんですか?

 

-飛松

森岡さんのところをお手伝いされてる方がいて、森岡さんがたまたまフランスの方に出張で行かなきゃいけなくて、1週間2週間店を休みにしなきゃいけないと。それでお手伝いしてる方がもったいないから、誰かその期間やってもらったらみたいな。そのときにその人と僕がたまたま会ったときに面白いねみたいな。ちょうどそういう期間で探してたんだけどやってみない?みたいな、そのまま森岡さんにもお会いして、ぜひやってくださいみたいな。

これだったら任せられると思うんでみたいな感じでやらせてもらって、店番とかも全部僕らがやるんですけど、そういうのもやって、それが初です。

 

-藤井

やったのがいつですか?

 

-飛松

2014年の頭なんですけど、その時点で30歳前半で始めた時期でランプシェードっていうので発表して、当時そんなにほとんどいなかったんです。磁気でランプシェードっていうのが。10年間、僕も研究機関でほとんど表にももちろん出してないし、僕も表のこと知らない状態っていうか、それで流れとしては全然いきなりなんですよ。 

最近こういう作家さん増えてきたねと言って新しいのがどんどん文脈で生まれてくるんだけど、僕の場合、急に全然別の文脈でいきなり来て、しかも初個展は20代が多い中、いきなりもう30超えてるという技術的にも、ある程度出せるところまで持ってきたので結構驚かれて、誰もやってない文脈でいきなりランプシェードでしかも技術的にもなかなか大変なことやってるという、今までどこで何やってたんですか?と言われて、研究してましたみたいな、でもそれが良かったんです。

小出しにしていたらガス抜きでインパクトなかったと思うんですけど、それがだから我慢して我慢してポンって出したから、余計いろんな人に覚えてもらいやすかったというか、印象に残ったみたいで、そこからもうずっと目まぐるしい感じで、個展をいろいろやらせてもらっていたという感じで現在です。

 

-藤井

今、作品自体は、江東区●●(17:46)周辺、この辺で作られてますけど、ここに来たのは大体きっかけだったり、いつ頃からだったり

 

-飛松

ここに来たのは、初個展をやった年の前の年です。2013年から引っ越してきて、妻の実家が近いというのもあったりとかして、元々東東京側は、下町だし空間も開けていて、工場跡とかもいっぱいあるから工房にできるような建物もいっぱいあるかなと思って、それできたんです。現代美術館も近くにあるっていう意味では、ロケーションもすごくいいじゃないですか。公園も大きいというので、ここに来ました。

 

-藤井

結構、作家さんをちらほらいたり、そういうアートは親しみやすい土地だと思うんですけど、この街の魅力みたいなところはどう思われていますか?

 

-飛松

ギャラリーとか美術館はあるんだけど、意外と作家がいっぱい住んでるかと言ったら、そういうわけでもないんです。最近はちょっと増えてきたけど、僕が来たときは陶芸家って、ほとんどいなかったという状況です。町としては今ちょうど、ここは木場公園ですけど、木場というだけあって、江戸時代は木材置き場でした。だから、ここは今、全部公園だけど、昔は全部プールになっていて、江戸の町に木材を提供していた。全国からいろんなところから集めてきた木をここに浮かべていたところです。

水路を使って当時の江戸はベネチアン並みに水の都というぐらい、水路が張り巡らされてたんで、その水路を使って木材を運んでいたような場所なんです。

 

-藤井

この町は今の飛松さんの作品に影響を与えていたり、そういうのはあるんですか?

 

-飛松

作品に影響というのはわかんないですけど、ただ、歴史的な背景っていうのはすごく僕は大事にしたいというのがあって、だから、この町にしても、もちろん江戸時代の木場でそういう場所だけど、戦争が始まったら、ここは東京大空襲で全部焼け野原になっている場所なんです。

だから1回全部焼けてしまってそれで木場が移って、今は新木場というところ移って、移ったここは全部公園になり、木材系の会社も新木場に移ったところもあれば、まだこの辺で残ってるところもある。そういうところの街がどんどん生まれ変わっていくけど新しいものがまた入ってきたりという、そういうのを知った上で自分も入ってきているんだなというのは重要だなと思うし、ランプシェードを作り始めた元々のきっかけも、自分がミルクグラスの潰えてしまった文化を継承して発展させるっていう意図があったので、そういうところにも繋がってくる話だなと思っていて、そういうところで言うと自分のランプシェードで大事にしてることは、自分をあまり出しすぎると、ちょっとまた違うかなと思っていて、結構言われて嬉しいのが「なんか懐かしい」と言われた後に、でも初めて見る新しい感じがするみたいな、そういう言葉がすごく一番僕の中で嬉しい。

懐かしいというのが、要するさっきの継承にはかかっていて、新しいっていうのが発展させてるという言葉になっていて、だから継承して発展させた結果、懐かしくて新しいという言葉をもらえた。

だからそれはすごく間違ってなかったのかなみたいな。古いものから新しいものへとっていうのは、この町の歴史と自分が今からやろうとしていることを重ね合わせている部分はあるかなと思います。

 

-藤井

作品について、今、飛松さんの作品は大体どういうところで使われていることが多いんですか?

 

-飛松

個人宅はもちろん、引っ越しとか、新築建てるっていうときに選んでもらう

リビングとか、もちろん玄関とかいろんなところがありますけど、あと結構多いのはやっぱり建築系の会社と繋がっているので、ホテルだったりとか、あとは飲食店とか、そういう公共の場所、学校にも入れたこともありますけど、そういうところで使われたりもしています。

 

-藤井

作品のコンセプトだったりとか、セールスポイントみたいな、こういうところには生きるんだよなとか、これめっちゃ喜んでもらえるみたいなのはありますか?やっぱりデザイン?それともあとは光?

 

-飛松

光の種類がすごく温かいんですけど、別に古いリノベーションの建物ともちろん相性はいいです。でも今の家にも、もちろん相性もどういう空間かというところにもよりますけど、すごい相性が良くて、光の質としての温かさを、大事にしてほしい部分があって、何が大事かというと、今さっき蛍光灯の話をしましたけど、現代の人たちは蛍光灯って昼の象徴なんですよ、真っ昼間。 

夜にようやく暗くなったのに、また真っ昼間にしているんですね。それで寝る直前にスイッチを消すと、昼間から急に夜になるっていう、それがやっぱり自然界では、実はその間に大事な時間帯があって夕方の時間帯があるんです。

僕の照明って結構、夕方の時間の、あのオレンジ色の光にすごい近いんですよ。前の展示会でもよく、それをコンセプトにやっていたんですけど「夕日を灯す」という展示会をやったりするんですけど、夕方に夕日の時間帯を作ることで体を休ませるような、スリープモードに入る前の準備をするという、そういう意味での磁器のシェードに温かい光というのは、すごく適していると思っているので、実際そういうのを体感してほしいなというのはあります。

 

-藤井

あと、作っているときに一番こだわっているところとか、結構ここには手間がかかってるんだというのは、どういう工程ですか?

 

-飛松

手間かかっていると言えば型物なので量産運用の技術っていう意味ではポンポンできる。いろんな形ができるって結構思われちゃうんですけど、そうでもなくて結構量産と言っても、1個1個仕上げていかなきゃいけないし、特にランプシェードの場合、生地の厚みが重要なんです。薄ければ薄いほど、もちろんよく透けてくれるんだけど、1200度の窯の中で焼いたときに、1200度の世界って柔らかくなるんです、ああいうものって。

それが柔らかくなった瞬間に薄いと、形が保てなくなって潰れちゃったりとかする。形を優先するには厚くすれば、その形ができる。でも厚い生地だと暗いランプシェードになっちゃう。そういうジレンマがすごくあって、その辺の間を取りながらやると守りに入っちゃうと、いわゆる、こういう形になるよねってなっちゃうから、そうじゃなくて、もうちょっと攻めた、こういう形っていうのをやっていくには、いろんな失敗を繰り返さなきゃいけないんです。

そういうのがあって、ようやくうまくいったのが今、自分が作っているものなんですけど、でも全部、必ずしも焼けば100%成功するわけではないです。いいやつで7080%で、厳しいやつで歩留まりが悪いと20%になるときもある。5個1個成功するみたいなひどいやつもあったりするんですけど、それでもそうしないと取れない形。

工場とかでは多分そんなのは絶対生産できないんだけど、僕の場合は50%の確率で成功しても、それで世の中に出せるんであれば、作る価値はあるかなって思っている。そういう感じです。

 

-藤井

作品を作っていて一番嬉しいことは何ですか?

 

-飛松

作品作りで結構嬉しいというかいいなと思うのは、意外と毎回同じ形を作り続けるんですけど、照明の形に関して飽きないです、意外と。

毎回、型から抜くたびに、良いのが生まれたなって思う感動があって、それはすごく大事にしているし、そうありたいと思ってる。本当に毎日のように「いいな」と思いますけど、ランプシェードを作っていて

 

-藤井

日々嬉しいですか?最後なんですけど、これから飛松さん考えていること、挑戦したいこと、そういうのはありますか?

 

-飛松

よく目標とか、これからの展望っていう質問はよくされるんですけど、この数年の間もずっと走り続けて制作しているんですけど、コロナがあったことで、いろいろ考え方が変わって、自分のペースをもうちょっと考え直そうというのが実はあって、広げたいっていうのはもちろんあって広げてきてはいたんだけど、程よい制作のスペースとか量もあるなと思っていて。

型ものだから、ずっと作れちゃうっていうのは実際あるんだけど、最近はもう作って配り終えたなっていう何かがあるなと思って、この作品に関してはみたいな。そういうのはリミットを作ってもいいのかなと、むしろ思っていて、やっぱり生活も整えていきたいし、そういう自然な自分がちゃんとした生活リズムを作っていきながらの中で生まれてくるものっていうものは、すごく大事なんじゃないかなと思って、そういうものをみんなにも使ってほしいっていうのがある。全然、大きな夢じゃないですけど。